大垣の枡の歴史と大橋量器のお話

岐阜県大垣市が、枡の生産量日本一で、全国の約80%を製造していることを、ご存じでしょうか。

今回は、どうして大垣市が枡の一大産地になったのか、そして大垣で今も枡の製造を続けている3社のうちの1社である、弊社の物語をお話させていただきたいと思います。

1. 大垣の枡

1300年の歴史がある枡ですが、大垣で生産が始まったのは存外遅く、1890(明治)年でした。名古屋の桶屋で修業を積んだ一人の職人が、岐阜県大垣市へ帰郷し木桶の製造を始めました。その後木枡も作ってほしいとの声があり木枡の製造をはじめ、西日本への運搬がしやすい土地柄から、全国へ販売するようになりました。

全国に木枡を販売して成功した職人の親戚が、見よう見まねで枡の製造をはじめ、ピーク時には市内に製造業者が同時に9社存在するほど、枡の生産が盛んになりました。

では、他の地域でも生産されていた枡がどうして大垣で発展したのでしょうか。

それには2つ理由があります。

一つ目は始まりの職人が大垣市へ帰郷したこと。

二つ目は、大垣の地理的な利点によるものでした。地下水が豊富で、市内のいたるところに水路が存在する大垣は、”水の都”と呼ばれてきました。

また、当時枡はヒノキのます目で作らなければなりませんでした。そのため、日本有数のヒノキの産地である木曽や東濃が近くにあり、水路で木材を運べる大垣は枡の生産に最適だったのです。

それに加えて、大垣は日本の真ん中であるため、枡を全国に運搬することが可能でした。

こうした理由により大垣は枡の生産地となりました。

2. 大橋量器のはじまり

大橋量器は、1950(昭和)年、現代表取締役の祖母である大橋むねにより創業されました。女性経営者であったむねは、家では優しくも仕事に関しては厳しい人であったと言われています。

はじめは、枡だけでなく物差しや身長計を製造する量器メーカーでしたが、枡へニーズが集中していたことから、枡専門メーカーとなります。

3. 売上はかつての半分に

1993年、現代表取締役の大橋博行(以下大橋)が結婚を機に入社しました。それまでハイテクな大手ITメーカーに勤めていたところから、いきなりローテクなものづくりの世界に入ることに戸惑いながらも枡づくりを始めたのです。

いざ家業に入ると、かつて1億円あった売上が5600万円にまで落ち込んでおり、経営はかなり厳しい状況にありました。当時7社あった大垣の枡メーカーの中で、最下位クラスの業績だったのです。

4. 決死の覚悟の全国営業

自分の家族や社員の生活が危ぶまれていると、危惧の念を抱いた大橋は、祝いの席で使用する酒枡のニーズに着目。樽酒に枡を加えて販売していた酒造メーカーへ、卸業者を飛び越えて直接の営業を重ねました。

こうした必死の努力が実り、一時的には売上が5割ほど回復したものの、5年ほど経つとまた売上が減少しました。景気の悪化や生活様式の変化により、祝い酒を振る舞う習慣そのものが減ってしまったのです。

5. 革新から気づいた意外な事実

新たな危機に対応すべく大橋量器が徹底したのが、お客様のニーズにNOと言わず、全力で応えることでした。

「赤や黒に塗れないか?」「8角形の枡は作れないか?」など型破りな依頼にもとことん向き合い、解決方法を模索しました。

これまでのまま従来の業界の中だけで生きていたらいけないという危機感が後押しし、枡の使い方や形を変えて新商品開発を積極的に取り組み始めました。

枡づくりに新しい活路を見出したかったのです。

このまま同じ枡を作っていて、枡を次につなげる、枡を違う形で使ってもらう、今までにない使い方で楽しく使ってもらう。

そんな攻めの活動を続けて10年の月日が過ぎた頃、業績が好転します。不思議なことに、売れているのは新商品ではなく、昔ながらの正統派の枡でした。

新しい挑戦をすれば、注目が集まる。それがきっかけとなり、枡本来の魅力を理解してもらえる。気づけばそんな好循環が生まれ、大橋量器は大垣の枡メーカーの中で、一気にトップシェアへと上り詰めます。

6. 大橋量器のこれから

大垣の周辺では知っていただけるようになりました。けれど、大垣の枡をもっと多くの方に知っていただきたいという気持ちがあります。昨年、「大垣の木枡」を全国に発信していくため、地域団体商標として、地域名と団体名を商標登録しました。

「大垣といえば枡、枡といえば大垣」と言っていただき、枡を日本全国の方々に知ってもらうことで、枡を楽しい・面白いと思っていただけるよう精進してまいります。

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